
▲モックンと子供
五つ星評価で【★★★竹原ピストルすげえな】
竹原ピストルって今までに全く見なかった訳でもないだろうけど、見た記憶はない。
もう、そこいらのダンプの運ちゃん捕まえてきて演技させてる風にしか見えない。
この竹原ピストルとモックンが好対照。
まあ、ざっくり言うとモックンいやな奴なのである。
竹原ピストルもダメな部分はあるが、イヤな奴感は薄い。
竹原ピストルのダメな部分は自分で変えられない部分がメインであるが、
モックンの嫌な部分は意識する事で変えられる、メンタルな部分である。
モックン大人なのに人に甘えて、上手く甘えられなそうになるとダダをこねてる。
子供ならともかく大人だし、モックンの役は恵まれた階層の人間なので、
そこはお前が大人らしく振る舞うべきだろう、とつい思ってしまう。
この物語はそのモックンが妻を失う前に既にマイナスであるのに、
妻を失う事が契機になってトントンの線まで戻る物語だ。
今回、やっとこさ名画座で見たのだが、やはり見るのに躊躇があった。
最初のチラシに付いてるコピー
妻が死んだ。これっぽっちも泣けなかった。
居たたまれない。
私も父の葬儀では泣けなかった。
感情欠落と言われようが、そう泣けはしない。
そんなんを再確認させられるのはある意味たまらない。
なので後回しにしたが、やはり西川美和監督作品は見ておきたかったので見た。
これは、妻が死んであまりその事に親身ではないのに可哀想な自分を腫れ物のように開示しなければいけない自意識過剰のひねくれ者の話だ。妻の死が痛手でないと言えば嘘になるが、彼が冷静でいられるのは、彼女は彼に取ってどんな甘えをも許す甘え装置みたいな関係で、にもかかわらず彼が彼女に対して取っていた「甘え」が本当にどうでもいい事で、なくなっても困らない程度の物にすぎなかったからだろう。大した関係ではないのである。彼女から彼に対しての愛はなくなっていたが、逆に彼から彼女に対しての愛も自覚はないがなくなっていたと言える。
そんな彼がずっと居心地悪そうにしているのを見ているのはキツい。
だから、単純人間の竹原ピストルと、ごくごく普通の子供二人が出てきたのは良かった。
この三人が仮に出てこないなら、モックンは二時間ばかし黒木華と延々とSEXをする、そういう映画を作ればオチる気がする。それはそれで見たいのだが、映画としてはそっちの方がキツいだろう。
彼の事を「さちおくん」と呼び嫌がられる深津絵里を失った後にやって来るのは、彼の事を同じように「さちおくん」と呼ぶ竹原ピストル家族である。映画の冒頭では執拗に嫌がっていた「さちおくん」を竹原ピストル家族には許してしまう。それは「モックン」+「深津絵里」の関係が家族の外に見せつける「形式」の家族であった為「さちおくん」なんていうダサい呼び方は許容できなかったのだろう。「モックン」+「竹原ピストル家族」は外に見せるような関係では全くないので、呼び方はどうでもいい。この関係のイビツなこと。
深津絵里からモックンへの「さちおくん」。モックンは作家名で呼ばれたい。妻の深津絵里は自分のプロモーションの一部を担う存在なので「さちおくん」などと呼ばれて、そのプロモーションにマイナス展開されては困る。これは「家族」の形骸化であり、深津絵里からモックンへの個人的な感情である「さちおくん」は無視され続ける。
竹原ピストル家族からモックンへの「さちおくん」。モックンはこの関係は大事に思ってないし、公に公表すべき関係でもないので、どうでもいいと思っている。竹原ピストルはバリバリに距離を縮めようとして「さちおくん」を使っている。終盤、その距離が縮みすぎた事でモックンは自滅する。案外、呪い的な……
【銭】
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・永い言い訳@ぴあ映画生活
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