
▲左から、間男、妻、夫。
五つ星評価で【★★★ダークですな】
「最後の決闘裁判」と言うタイトルで「サイゴの決闘相手はキーラ」とかつい言ってしまう老害。
「最後のケツを問う裁判」と言うタイトルで「サイゴ×キーラ」、キーラのお目々はキラキラだから壁ドンされないようにバックでズンドコとかつい思ってしまう腐女子的老害。
そんなにヒットしてないと聞いたので、明るく楽しくライトな「踊る決闘裁判」にしないと、と思ったエコノミック老害。
一つの強姦事件を三者三様(夫、間男、妻)の視点から描く。これは実は黒澤の『羅生門』と同じ構成。ただ、藪の中で三人が争う『羅生門』と異なり、事件その物は妻と間男のみでなされる。なので、正しいか嘘かについては「妻」と「間男」しか答を持ちえていない。逆に「夫」にとっては、その事件が正しいか嘘であるかは大きな問題ではない。『羅生門』で大事になった誰が誰を好きになるという恋愛感情の揺らぎやその際に発生する優越感・劣等感がこの映画にはない。「夫」と「妻」の関係性が現代と違うからだろう。「妻」は「夫」にとって、「パートナー」や「相棒」ではなく「子を産む為の用具」でしかない。だから、「妻」が「間男」とまぐわっても、馬の種付け程度に相手として「あの馬はダメだ」としか思っていない。おそらく「夫」は「妻」の才覚についても認めていない。それは彼女が彼女の権限として口を出す仕事ではないからだ。
物語は「妻」の近くに三人の女性を配置している。「女中」「女友達」「義母」だ。「女中」に性はない。働くのみだろうし、手を付けられたとしてもそれだけの関係で、甘んじて受け入れなくてはならないに違いない。「女友達」は強姦犯の味方に近く、「イケメンと上手くやったわよね」程度にしか思っていない。おそらくこっちの方が当時の一般感覚だったのではないか? そして「義母」は同じように自分を押し殺し忍従してきた。だが、「妻」の仲間ではなく、彼女は「母」になる事で、やっと家族として迎え入れられたし、それを「妻」にも求めている。つまり「妻」だけ、現代的なキャラクターであり、浮いている。「妻」だけが「家」より自分が大事な人間である。
「妻」に比べれば、「夫」や「間男」は自己の権利闘争の為に、この裁判を利用している。「夫」も「間男」もそれぞれがそれぞれの政敵であり、亡き者に出来れば、より自分の権利をその所領で拡大できるだろう。それは「家」の為だ。「家」を強くし、「家」を守る事が「家族」を守る事に繋がる。「妻」の父はそれが出来なかった。「夫」も「間男」も「神」と「王」の威光を借りて自らの権利を主張する。これは一発逆転のチャンスである。先に裁判まで起こしたのに認められなかった「夫」の所領も、相手が「神」が正しくないと断罪した男であるなら、彼の手に戻るかもしれない。「間男」側は「間男」側で、「夫」が持つ全ての財産(残念ながら「妻」は含まれない)くらい簒奪できる可能性がある。何と言っても「神」に断罪された相手なのである。
こういう構造があるので、『羅生門』とは違う。誰が正しいかではない。彼等一人一人に関しては誰もが正しい。きっつい映画である。
マッド・デイモンとベン・アフレックが脚本を書いたという事で出演も兼ねているのだが、おかげでたいそう芋くさく、英語喋ってるのもあって、イギリスっぽかった。でも、フランスだ。マッド・デイモンはジャン・ギャバン、アダム・ドライバーはアラン・ドロン、ジョディ・カマーはエマニュエル・ベアールとかなのかもしれん(最近のフランス人役者知らん)。
【銭】
ファーストデー価格1200円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・最後の決闘裁判@ぴあ映画生活
▼次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です(一部TBなし)。
・最後の決闘裁判@ノラネコの呑んで観るシネマ
・最後の決闘裁判@yukarinの映画鑑賞日記α