五つ星評価で【★★★★こんなに緊張感を持って見れる物になってるとは思わなかった】
あの一本筋の通ったオリジナルを向こうに回して
ちゃんと見応えのある作品になってるのが凄い。
やるね。
渡辺謙はオリジナルと互角。
風邪にかかったシーンが分かりづらかったのは、ちょっと残念
(これは演出編集上の問題で渡辺に非はないが)。
他の登場人物はオリジナルから借りて来てるような面もあるが、
渡辺謙だけが西部劇から逸脱して、水飲み百姓にしか見えない点を高く評価する。
柄本明も互角。柄本明も役を自分の物にしている。
とっても出自が悪そうだし、老いぼれだ。
柳樂優弥はまずまず。っつかオリジナルの若者をもう覚えてない。
この柳樂優弥のビジュアルと標的のビジュアルがちょっと似てしまったのは減点。
佐藤浩市はジーン・ハックマンに比べると明らかに劣る。
年も若いし、渡辺謙とタメを張るようには見えない。
役柄が嫌な役だから話は成立するが、役者をキャリアで選んだ感がちょっと強い。
だが、実はあえて見劣りをする配役を選んだのだとしたらしたたかだ。
そして、小池栄子と忽那汐里が素晴らしい。
小池の直線なまなざし。実は一番の許されざる者は彼女だと踏んでいる。
忽那のどうにもならない可愛らしさ。一番許されるべきは彼女だと踏んでいる。
う、うん、あの傷だったら買うよ。俺は病んでるから傷があるなら更に買うよ。
さて、ここから勢いで書いてく。
仮に佐藤浩市が殊更に悪くないとしたら、どうだ。
彼は役人としてやるべき事をやっている。
その為に、彼の土地では銃剣の帯刀は禁止だ。
蝦夷地は日本の延長であり、開拓時代の大西部ではない。
銃や剣で自分の身を守るというメンタリティーは多分ない。
だから、荒くれ者の多い彼の地では銃剣は政府が規制する。
そして、暴力も政府が規制する。
暴力をふるっていいのは政府と政府が許す者のみだ。
だから、暴力を振るうと思われる銃剣を帯びた者は足腰立たなくなるまで打ちのめす。
渡辺謙のように明らかに前科があって怪しい者に関してなら尚更だ。
だが、佐藤浩市は女郎に暴力を振るった男たちを見逃した。
これは、二つの理由があったろう。
その暴力が死に至るものでなかった事。
その暴力が女郎屋の資産に対しての物だったこと。
つまり、彼女たちには人権がない。市民ではないのだ。
ここがイーストウッド版と違う。
イーストウッド版では女郎は個人事業主であり、
彼女の容貌が傷付けられる事は彼女の生活が成り立たなくなる緩慢な死を意味する。
だから、イーストウッド版で相手に復讐して殺す事は大きな間違いではない。
彼女は傷付けられても資産として女郎屋が生活を保障する。
ここで面倒なのはお梶・小池栄子だ。
彼女は女郎を扇動して賞金稼ぎを雇う。
直接、被害を受けた忽那汐里が渡辺謙に「本当に殺すの?」と問いかけているから、
小池栄子がいなければ、この一件は大きな事件にならなかったに違いない。
佐藤浩市はこれに対して異議を挟まない。
佐藤浩市が規制をかけるのはあくまでも直接的な暴力だけだ。
それゆえ、女郎は共謀者や教唆者として拷問に合う事はない。
何故か。
これは暴力の源に対しては鞘を抜かないという事なのではないか。
薩長と幕府の戦いで、裏から教唆したのは、どちらも朝廷だ。
だが、武士「戦う者」は「天子」のための兵隊であるから「天子」には牙を剥かない。
暴力は暴力で抑える。武士はその為の道具だ。
そういう考え方が根底にあるのではないか。
みんなが理念の為に戦った後なので、
金にはあまり力はない。金は金でしかない。
誰かが金をやるから殺せと言っても従わなければ暴力にはならない。
だから、お梶はほっとかれる。
明らかにお梶の主張はおかしいにも関わらず。
彼女は女郎屋の資産が傷付けられたのに激昂し、相手の二人の男を殺せと言う。
「目には目を」ではない。「目には目どころか生首を」くらいの主張だ。
こんな主張に耳を傾ける痴れ者はいてはならない。
だが、荒くれ者の多い蝦夷地にはいてしまう。
という事で、おまわりさんの佐藤浩市は柄本明を捕まえる。
彼は一人殺害してる殺人者である(渡辺謙は痛みを長引かせないよう介錯しただけ)。
暴力を取り締まる為の情報が必要だった。
佐藤浩市が信じればという面はあるが、
実はここまでは渡辺謙はこの件に関して無罪である。
それどころか、佐藤浩市に理不尽に痛めつけられた被害者ですらある。
殺人は、一人目の男は介錯したのみだし、二人目も直接、手を出していない。
それが柄本明との最初の約束通りだから、彼は賞金を貰う事に躊躇はしない。
だが、人殺しその物はしてないのだ。
しかし、彼は柄本明の死を知った時、暴力の行使者となる事を選ぶ。
ここで初めて酒を飲み、昔の生まれ変わる前の彼に戻るのだ。
彼はこの事件で初めて「許されざる者」を選択するのである。
彼は女郎屋を撃ち抜く。
これが最初の暴力だ。
女郎屋は自分が男を殺した訳でもないのに、割に合わない死を与えられる。
彼は小池栄子がヒステリーを起こし、開拓民の殺害を依頼したのと同じように、
渡辺謙の感情のヒステリーで死に至る。
渡辺謙はただ柄本明との関係性の為だけに佐藤浩市を殺す。
そこに、正義はない。
渡辺謙は去り際に「地獄で待ってろ」と柄本明の死体に語りかける。
柄本明は殺人者であるから、地獄にいる。
そして、渡辺謙は自らを殺人者として振る舞う事で
アイヌ人の柳樂優弥の足跡を消そうとしているのだろう。
渡辺謙は生きていようが、死のうがこれからの居場所は地獄だ。
彼の大事なものを守る為にはそれしかないのだ。
彼の宝は地獄を一身に背負った彼が近くにいたのでは守れない物になったのだ。
小池栄子を初めとする女郎たちは、女郎屋の死によって自由になる。
だが、そこは佐藤浩市が秩序を作り、暴力が排除されていた世界ではない。
災厄を呼び起こした彼女たちに対して
残された者たちが行う仕打ちは死より過酷かもしれない。
そして、柳樂優弥と忽那汐里は渡辺謙の代わりに渡辺謙の家に帰る。
柳樂優弥は渡辺謙と同じ罪を背負い、忽那汐里は渡辺謙と同じ傷を受けている。
そして柳樂優弥は渡辺謙の妻と同じアイヌの血を継いでおり、
忽那汐里は妻から渡辺謙に渡された形見を受け継ぎ、
それを彼の子供に受け継がなければいけない。
柳樂優弥は言っていた「俺はあんたみてえになりたくねえ」
多分、渡辺謙が彼に求めるのはその一点なのだ。
【銭】チケット屋で券を750円で買っただ。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
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許されざる者@ぴあ映画生活▼この記事から次の記事に今回は初期TBだけ付けさせて貰ってます。お世話様です。
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許されざる者@映画のブログ・
許されざる者@映画的・絵画的・音楽的・
許されざる者@ラムの大通り・
許されざる者@映画通信シネマッシモ☆映画ライター渡まち子の映画評・
許されざる者@ノラネコの呑んで観るシネマ<追加>てんぱって書いたものだから結論を書き忘れた。
「許されざる者」とは誰か。
原罪を負う全ての人類とかいうと話がでかくなってしまうから、そうではなく、
いや、えーと、誰にとっての「許されざる者」かという点もあるだろう。
主人公・渡辺謙にとっての「許されざる者」と考えるのが一般的な解釈だろう。もう少もう少し広義で「(社会にとっての)許されざる者」であるなら、
渡辺謙、柄本明、柳樂優弥という人選になる。どちらにも渡辺謙は入っている。
あのストイックな(役柄の)渡辺謙が選ぶ人選に渡辺謙が入ってない筈がない。
だが、ここでやはり小池栄子をあげたいのだ。
それは彼女が無闇な扇動者だからだ。
扇動者として彼女は事件を支配する。
まるで、薩長の影に朝廷が暗躍していたかのように。
そして太平洋戦争の影に戦争こそ進む道と吹聴する世論が暗躍していたかのように。
みたいなことを
『飛べ!ダコタ』と関連付けながら思った。