頭からネタバレで飛ばします
生きている今、自分の身体が「物」という認識はない。
だから、仮に死んだらできるだけ厳かに扱ってもらいたいと思う。
だが、役所仕事上は、死体(body)はもう、物でしかないのだ。
そういう風に移行しようとしている。
その中、厳かに儀式を取り行ってきた前担当者が事故で死に至る。
彼は自分が取り行っていた葬式とは正反対に、実に事務的に処理される。
参列者もなく、土に埋められたひっそりとした彼の墓地に集まる人かげ。
彼が今まで弔って来た人が彼を迎えにきたのだ。
ハッピーエンドのように見える。そのように演出されている。
そして涙も止まらない。
だが、それでいいのか。
彼が思いがけず人間的な死出の旅立ちを得たのは、彼の経歴ゆえだ。
今後、身よりのない死体は物として扱われる。
そして、事務的に取り扱われる物には今までのように思いは籠らないだろう。
「葬儀した」という形式の記録が残るのみ。
つまり、これはジョン・メイという彼が、
彼が行っていた仕事の断絶と引き換えに、彼の死後の旅立ちの保証を得る映画だ。
彼の残してきた現世には彼の仕事の痕跡は何も残されない。
そして、彼の去った現世には、もうそのように弔われる幸せな死者はいなくなる。
それをハッピーエンドのように扱うのはおかしくはないだろうか?
主人公の名前ジョン・メイの「ジョン」は日本で言うところの「太郎」みたいなありふれた名前。「メイ」は5月。5月から連想させるのは労働者の祭典「メーデー」がある。葬儀の日は「ジョン・メイの日」⇒「太郎のメーデー」。労働者の祭典を表しながら、映画で描くのは真の労働者の死。皮肉な構図になっている。
【銭】
映画ファン感謝デーに観たので1100円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・おみおくりの作法@ぴあ映画生活
▼この記事から次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です。
・おみおくりの作法@Nice One!!
・おみおくりの作法@お楽しみはココからだ
▼関連記事。
・アイ・アム まきもと(おみおくりの作法・ローカライズ先)@死屍累々映画日記・第二章
PS ジョン・メイという名前から思いだす名前にジョン・ドウがある。
『セブン』の殺人鬼の名前である。
なるほど、彼にも彼自身なりの『おみおくりの作法』があった。
………「やり太郎」か?
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