ふじき78の死屍累々映画日記・第二章

場末にひっそり咲く映画日記。第一章にあたる無印はライブドアブログ

『アイヒマン・ショー』をHTC有楽町2で観て、アイヒマン萌え萌えふじき★★★★

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▲きゃーアイヒマン様よおおおおおおおおおおぅ。

五つ星評価で【★★★★勝利のドラマのように見せかけて、実は敗北しているみたいな皮肉な映画が好き。そしてアイヒマンが出てるだけでワクワクが止まらない】
このアドルフ・アイヒマンという実に有能な小役人がキャラとして大好きなのである。ユダヤ人の強制収容所への移送を計画した男。結果として彼が辣腕を振るわなければ強制収容所での死者はもっと減っていたに違いない。だが、だからと言って彼が無慈悲に笑いながらユダヤ人を虐殺した訳ではない。ただ、彼は処世の為、自分の能力を使役した。後世、それは「悪魔の所業とされ、それを行わない選択をしなかった」として、彼は裁かれる。でも、「それを行わない選択」はきっと出来なかっただろう。日本でもそうだ。「それを行わない選択」を選んだものは憲兵による拷問の末、死や転向を賜ったりした。時代に抗う事は難しいのである。なので、私もきっとアイヒマン側を選ぶ。だから、アイヒマンが好きなのだ。彼は悪漢ではない。ただの小役人だ。その彼を悪漢に仕立てたのがメディアである。今回はそのメディアの一つ、TV製作者を描いたもの。

アイヒマンを悪漢としたメディアは何より新聞だろう。
ナチスの極悪人将校捕まるとの第一報は新聞から出された筈だ。
その時点でもう既に「大悪人」と決まっていた筈だ。

映画内のフルヴィッツ監督は強制収容所でのナチの悪行を証言するユダヤ人の姿を見て、表情一つ変えないアイヒマンに驚愕する。人間であるなら涙の一つも流すだろう、というのが彼の論理だ。これは間違えていると思う。ユダヤ人の痛々しい証言はこのアイヒマン裁判のプロパガンダとして必要な部位であると思うが、必ずしも裁判その物にとっては必要ではない。それらの虐待は間接的にアイヒマンによってもたらされたが、アイヒマンが恣意的に行なった罪ではないからである。自分の裁判案件と関係ない茶番を長々と見せられるアイヒマン、心が痛むより先に「そんな情動に訴えてまで自分を不利に持ち込みたいのだろう」と警戒する方が自然だろう。

だが、この証言部分が強制収容所で行われた様々な蛮行のプロパガンダとして機能し、世界は初めてそこでどのような野蛮な行為が行われたかを知る事になる。メディア戦略としてTV放映は成功だったと思う。この放映により「ユダヤ人は世界でもっとも迫害された民族第一位」を手に入れたのだ。自分達がイスラエルを建国し、先住のパレスチナ人を迫害する立場に立っているにもかかわらず。

ここにとても強い皮肉がある。

アイヒマンは「大悪人ではなく命令を聞いただけの歯車の一つ」という意見も出るが、TV製作者側は気持ちとしてそれを認められない。彼等は被害者の近くに位置しすぎているからだ。逆に彼等が加害者の近くに位置していたら、この裁判の矛盾を突いたのではないかと思う。第三者の目から見ると、所詮、感情による裁判であり、死刑は感情による処刑にしか見えない。そしてTVクルーはこの放映に参加した事により、二つのシステムの歯車として機能したのではないかと思っている。
一つ目は、プロパガンダにより、ユダヤ人やイスラエル建国を正当化するシステム。直接、手を出している訳ではないが、パレスチナ人への迫害を目立たなく矮小化させてしまった。
二つ目は、「ナチは凶悪でいかなる理由があっても、処罰すべき」という信仰の元、アイヒマンを抹殺するシステムに加担した事である。これは被害者がただ一人だから目立たないが前文の「ナチ」を「ユダヤ人」に置き換えると、そのヤバさが分かってくる。ただ、この映画の中では「アイヒマンの有罪」は正義として揺るぎがないような描かれ方をしているから、あまりヤバさとしては伝わってこないが。


【銭】
テアトルの会員サービスを使って1300円で鑑賞。

▼作品詳細などはこちらでいいかな
アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち@ぴあ映画生活
▼この記事から次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です。
アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち@ここなつ映画レビュー
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スペシャリスト@死屍累々映画日記
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