『処女の泉』『鏡の中にある如く』『魔術師』『第七の封印』新文芸坐
- Date
- 2019/02/07/Thu 16:57
- Category
- 映画(FC2独自レビュー)
新文芸坐の企画「イングマール・ベルイマン 101年目の風景」から2プログラム。
ベルイマンが凄い監督なのは分かってるけど身体がついていかない。ベルイマンって圧倒的に凄い映像と凄いドラマを投げつけてくる人で隙間がない。120%みたいなのが緩急無しでくる。そんなん仕事帰りに処理出来る訳ないじゃん。という事で、どれだけ寝てもいい。今回は印象だけでも持って帰るって見方をして来た。
◆『処女の泉』
五つ星評価で【★★★処女もヤリマもタイプじゃないのが問題】
1960年の白黒映画。89分。二回目。
ベルイマンと喧嘩する事になったら「お前なんか処女の泉の癖に」と吐き捨てる事が出来る、そういう意味で便利な映画。タイトルが『処女の泉』なのに最初に登場するのが擦れた妊婦なので、「ええっ」と思っちゃうのも束の間、出てくる処女が処女特有の「恐れ知らず無邪気」を無駄に膨らませたタイプで、外見が好みじゃなかったので、なんだか最初からゲンナリしてしまった。多分、現代だったら父ちゃんのマックス・フォン・シドーの後ろの処女を娘の前で奪うような展開もあるかもしれないと思うのだが、その展開に至るには59年早かった。
ベルイマンが神父だった実の父ちゃんに向けて、神様の真意など計り知れないポンコツな出来事が山のように起こっているであろうに、それでも神をゴリ押しするのは何故?という強迫観念めいた疑問を認めた初期映画群の一つ。
あの処女の死体一つ持っていたら、あちこちで泉を湧きあがらせる奇跡を生じさせられるかもしれない。と考えると、あの死体も『レイダース 失われた聖櫃』のラストシーンの箱の中に埋もれていたりするかもだ。
◆『鏡の中にある如く』
五つ星評価で【★★★家族の中の神の規定】
1961年の白黒映画。89分。初見。
どうしても神様の問題に決着を付けたいベルイマンが神の不在を説きながら、神が不在の中で何を規範として生きるべきであるかの結論をぶちまけた映画。個人的にはなかなかいい結論だと思う。だが、映画その物が答を出す為の思考実験のようであり、結論を出したものの、その結論が出た後に残された家族が幸せとはとても思えない。そこがとても皮肉だ。ベルイマン、ハッピーエンドとかダメなのか?(今回の含めてかなり偏った時期の5本しか見てないから全然断言できない)。
精神病にかかっている主人公の娘が「いる」とか「来る」という神様が、世間一般に言う「神様」とはかけ離れた印象を受けるが、神様に形はないからそれはしょうがないのかもしれない。
◆『魔術師』
五つ星評価で【★★★いや、単純に不敬な奴らがギャフンと言う映画が見たい】
1958年の白黒映画。99分。初見。
役人が詮議する旅芸人の一座のオカルトやトリック。科学万能主義の前に彼らの奇跡は全て暴かれようとするが、、、、。役人側のヒエラルキーの低い者を徹底的に見下そうという態度が鼻持ちならない。最終的には確実なオカルトも肯定しながら、役人と旅芸人の一座との争いは痛み分けで終わる。そこは庶民としてはギャフンと言わせて終わってほしかった。
◆『第七の封印』
五つ星評価で【★★★なにがどう第七の封印なのか今回も分からんかった】
1957年の白黒映画。97分。二回目。
十字軍の騎士と死神、魔女狩り隊、とかはいいけど、旅芸人や鍛冶屋夫婦とかそんなに大事な気がしない。最終的にいろいろ神の思惑が及ばないような不敬な事象が数多く行われているが、だから何というところまで思考が届かなかった。
死神はとても変なデザインで、真面目にやってるから笑えないけど、見れば見るほどいい味デザインである。真面目だけど味があるという意味で『ガメラ対バイラス』のバイラスっぽい。あんなんと比較すると怒られるか(あんなんって事もないけど)。
【銭】
『処女の泉』×『鏡の中にある如く』:新文芸坐の会員割引250円減の1100円。
『魔術師』×『第七の封印』:新文芸坐の会員割引250円減の1100円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・処女の泉@ぴあ映画生活
・鏡の中にある如く@ぴあ映画生活
・魔術師〈1958年〉@ぴあ映画生活
・第七の封印@ぴあ映画生活
▼関連記事。
・処女の泉(一回目)@死屍累々映画日記・第二章
・第七の封印(一回目)@死屍累々映画日記・第二章
ベルイマンが凄い監督なのは分かってるけど身体がついていかない。ベルイマンって圧倒的に凄い映像と凄いドラマを投げつけてくる人で隙間がない。120%みたいなのが緩急無しでくる。そんなん仕事帰りに処理出来る訳ないじゃん。という事で、どれだけ寝てもいい。今回は印象だけでも持って帰るって見方をして来た。
◆『処女の泉』
五つ星評価で【★★★処女もヤリマもタイプじゃないのが問題】
1960年の白黒映画。89分。二回目。
ベルイマンと喧嘩する事になったら「お前なんか処女の泉の癖に」と吐き捨てる事が出来る、そういう意味で便利な映画。タイトルが『処女の泉』なのに最初に登場するのが擦れた妊婦なので、「ええっ」と思っちゃうのも束の間、出てくる処女が処女特有の「恐れ知らず無邪気」を無駄に膨らませたタイプで、外見が好みじゃなかったので、なんだか最初からゲンナリしてしまった。多分、現代だったら父ちゃんのマックス・フォン・シドーの後ろの処女を娘の前で奪うような展開もあるかもしれないと思うのだが、その展開に至るには59年早かった。
ベルイマンが神父だった実の父ちゃんに向けて、神様の真意など計り知れないポンコツな出来事が山のように起こっているであろうに、それでも神をゴリ押しするのは何故?という強迫観念めいた疑問を認めた初期映画群の一つ。
あの処女の死体一つ持っていたら、あちこちで泉を湧きあがらせる奇跡を生じさせられるかもしれない。と考えると、あの死体も『レイダース 失われた聖櫃』のラストシーンの箱の中に埋もれていたりするかもだ。
◆『鏡の中にある如く』
五つ星評価で【★★★家族の中の神の規定】
1961年の白黒映画。89分。初見。
どうしても神様の問題に決着を付けたいベルイマンが神の不在を説きながら、神が不在の中で何を規範として生きるべきであるかの結論をぶちまけた映画。個人的にはなかなかいい結論だと思う。だが、映画その物が答を出す為の思考実験のようであり、結論を出したものの、その結論が出た後に残された家族が幸せとはとても思えない。そこがとても皮肉だ。ベルイマン、ハッピーエンドとかダメなのか?(今回の含めてかなり偏った時期の5本しか見てないから全然断言できない)。
精神病にかかっている主人公の娘が「いる」とか「来る」という神様が、世間一般に言う「神様」とはかけ離れた印象を受けるが、神様に形はないからそれはしょうがないのかもしれない。
◆『魔術師』
五つ星評価で【★★★いや、単純に不敬な奴らがギャフンと言う映画が見たい】
1958年の白黒映画。99分。初見。
役人が詮議する旅芸人の一座のオカルトやトリック。科学万能主義の前に彼らの奇跡は全て暴かれようとするが、、、、。役人側のヒエラルキーの低い者を徹底的に見下そうという態度が鼻持ちならない。最終的には確実なオカルトも肯定しながら、役人と旅芸人の一座との争いは痛み分けで終わる。そこは庶民としてはギャフンと言わせて終わってほしかった。
◆『第七の封印』
五つ星評価で【★★★なにがどう第七の封印なのか今回も分からんかった】
1957年の白黒映画。97分。二回目。
十字軍の騎士と死神、魔女狩り隊、とかはいいけど、旅芸人や鍛冶屋夫婦とかそんなに大事な気がしない。最終的にいろいろ神の思惑が及ばないような不敬な事象が数多く行われているが、だから何というところまで思考が届かなかった。
死神はとても変なデザインで、真面目にやってるから笑えないけど、見れば見るほどいい味デザインである。真面目だけど味があるという意味で『ガメラ対バイラス』のバイラスっぽい。あんなんと比較すると怒られるか(あんなんって事もないけど)。
【銭】
『処女の泉』×『鏡の中にある如く』:新文芸坐の会員割引250円減の1100円。
『魔術師』×『第七の封印』:新文芸坐の会員割引250円減の1100円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・処女の泉@ぴあ映画生活
・鏡の中にある如く@ぴあ映画生活
・魔術師〈1958年〉@ぴあ映画生活
・第七の封印@ぴあ映画生活
▼関連記事。
・処女の泉(一回目)@死屍累々映画日記・第二章
・第七の封印(一回目)@死屍累々映画日記・第二章
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