『あのこは貴族』ヒューマントラストシネマ有楽町1
- Date
- 2021/03/19/Fri 01:51
- Category
- 映画(FC2独自レビュー)
◆『あのこは貴族』ヒューマントラストシネマ有楽町1

▲エルフとオークに例えたいんだけど、貧乏な水原希子の方がバリバリ、エルフっぽくて、うーん。
五つ星評価で【★★★魚が川から跳ねたら息苦しいだろうし、獣が深い河に嵌ったら同じように息苦しかろう/ほぼほぼルートが違ってそういう目に会わないで済むのは双方にとって幸せな事かもしれない】
「あのこは金属」うわ、メタルカラーの水原希子似あいそう。もちろん、そういう映画ではなかった。
「お里が知れる」という言葉通り、上流の階級で暮らす為には「お里が知れないよう抑制」が必要である。一方、下流の階級で暮らすのには、お里などはどうでもいいのだが、まず、普通に暮らして生計を立てるだけで大変だ。この違った階層の二人を出会わせて、それぞれの閉塞感を描きながら、それぞれの持ち場でいい方向に作用する脚本が珍しい。
単純にラストシーンで、この二組は手を結んで何時までも何時までも幸せに暮らしましたとさ、とかやってしまいそうになるのに、そうはやらずによく耐えた。それはやりやすい。何故って条件が揃う一番簡単な例だから。低階層は資本をGETでき、高階層は閉塞感を打破できがち。でも、リアルではそんなに安易に手を結んだりはしない。結べばいいのに。そう言えば今までもこの階層の格差は描かれなかった訳ではない。ただ、描かれる時は対立概念であって、主に貧乏な者が富める者に追い付き追い越せという話が一般的。それって『巨人の星』じゃん。そして『銭ゲバ』じゃん。『あしたのジョー』だってそうかもしれん。どちらかというと富める者はただ富んでいて、そこに閉塞感はなさげ、貧しい者の貧しさ故の悲哀が強調される。そらあ、貧乏と言うのはそもそも生死を伴う大問題だから、貧しいだけで罪であり、罰なのだ。この貧しさの原罪をほぼなくして、金持ちの閉塞感も同時に表現した、この映画の先輩みたいな作品がある。それは『ドカベン』、わっはっは、本当よ。あの、「やぁーまだあー」の岩鬼正美は金持ちで、金持ちであるが故の自己存在に悩まされるし、山田太郎はまんま赤貧。まあ、そんなに深刻なムードはないのだけど。あと、いきなり品格がいつも通り落ちるがSM映画は階層の低い者が階層の高い者を快楽で打ち負かす、そもそもはそういう系統が主流である。階層の低い観客が見る映画だからルサンチマンなんだな。『あのこは貴族』はAがBを打ち負かす的要素がない事から女性要素が強い作品と言えるかもしれない。そうそう両雄相立てばいいのであって、殊更AがBに勝利しなければならないという考え方が男性的である。
『あのこは貴族』の対立構造的な映画として、実はもう一本観てもらいたい映画があって、それは又、これも男性的な成人映画なのだけど『悦楽交差点』。低階層の男と高階層の女、女は高階層の今の生活を維持しながら、低階層の男との獣のような汚辱に満ちたセックスに耽溺したいという、そんな映画。そう言えば『あのこは貴族』ではセックスは特別な描かれ方をしていなかった。濡れ場は水原希子に一回あったが、門脇麦のセックスがそれ以上とも、それ以下とも思えない。まあなんかどうでもいい扱い。そうね、女子本人にとってそれ以上に大事な物や事はいっぱいあるし、殊更、自分の番付が他人と物凄く違う可能性も低いのかもしれない(野郎はその辺りのコンプレックスが根深い)。
門脇麦はペットの子猫みたい。そして水原希子は自らハントを行う豹のよう。どちらも猫科なのに生き方が違う。ラスト、子猫がちょっとビジネスに手を染めるようになる。キティちゃんかよ(上手くない)。
【銭】
テアトル会員の会員割引+曜日割引で1100円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・あのこは貴族@ぴあ映画生活
▼この記事から次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です(一部TBなし)。
・あのこは貴族@ノラネコの呑んで観るシネマ

▲エルフとオークに例えたいんだけど、貧乏な水原希子の方がバリバリ、エルフっぽくて、うーん。
五つ星評価で【★★★魚が川から跳ねたら息苦しいだろうし、獣が深い河に嵌ったら同じように息苦しかろう/ほぼほぼルートが違ってそういう目に会わないで済むのは双方にとって幸せな事かもしれない】
「あのこは金属」うわ、メタルカラーの水原希子似あいそう。もちろん、そういう映画ではなかった。
「お里が知れる」という言葉通り、上流の階級で暮らす為には「お里が知れないよう抑制」が必要である。一方、下流の階級で暮らすのには、お里などはどうでもいいのだが、まず、普通に暮らして生計を立てるだけで大変だ。この違った階層の二人を出会わせて、それぞれの閉塞感を描きながら、それぞれの持ち場でいい方向に作用する脚本が珍しい。
単純にラストシーンで、この二組は手を結んで何時までも何時までも幸せに暮らしましたとさ、とかやってしまいそうになるのに、そうはやらずによく耐えた。それはやりやすい。何故って条件が揃う一番簡単な例だから。低階層は資本をGETでき、高階層は閉塞感を打破できがち。でも、リアルではそんなに安易に手を結んだりはしない。結べばいいのに。そう言えば今までもこの階層の格差は描かれなかった訳ではない。ただ、描かれる時は対立概念であって、主に貧乏な者が富める者に追い付き追い越せという話が一般的。それって『巨人の星』じゃん。そして『銭ゲバ』じゃん。『あしたのジョー』だってそうかもしれん。どちらかというと富める者はただ富んでいて、そこに閉塞感はなさげ、貧しい者の貧しさ故の悲哀が強調される。そらあ、貧乏と言うのはそもそも生死を伴う大問題だから、貧しいだけで罪であり、罰なのだ。この貧しさの原罪をほぼなくして、金持ちの閉塞感も同時に表現した、この映画の先輩みたいな作品がある。それは『ドカベン』、わっはっは、本当よ。あの、「やぁーまだあー」の岩鬼正美は金持ちで、金持ちであるが故の自己存在に悩まされるし、山田太郎はまんま赤貧。まあ、そんなに深刻なムードはないのだけど。あと、いきなり品格がいつも通り落ちるがSM映画は階層の低い者が階層の高い者を快楽で打ち負かす、そもそもはそういう系統が主流である。階層の低い観客が見る映画だからルサンチマンなんだな。『あのこは貴族』はAがBを打ち負かす的要素がない事から女性要素が強い作品と言えるかもしれない。そうそう両雄相立てばいいのであって、殊更AがBに勝利しなければならないという考え方が男性的である。
『あのこは貴族』の対立構造的な映画として、実はもう一本観てもらいたい映画があって、それは又、これも男性的な成人映画なのだけど『悦楽交差点』。低階層の男と高階層の女、女は高階層の今の生活を維持しながら、低階層の男との獣のような汚辱に満ちたセックスに耽溺したいという、そんな映画。そう言えば『あのこは貴族』ではセックスは特別な描かれ方をしていなかった。濡れ場は水原希子に一回あったが、門脇麦のセックスがそれ以上とも、それ以下とも思えない。まあなんかどうでもいい扱い。そうね、女子本人にとってそれ以上に大事な物や事はいっぱいあるし、殊更、自分の番付が他人と物凄く違う可能性も低いのかもしれない(野郎はその辺りのコンプレックスが根深い)。
門脇麦はペットの子猫みたい。そして水原希子は自らハントを行う豹のよう。どちらも猫科なのに生き方が違う。ラスト、子猫がちょっとビジネスに手を染めるようになる。キティちゃんかよ(上手くない)。
【銭】
テアトル会員の会員割引+曜日割引で1100円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・あのこは貴族@ぴあ映画生活
▼この記事から次の記事に初期TBとコメントを付けさせて貰ってます。お世話様です(一部TBなし)。
・あのこは貴族@ノラネコの呑んで観るシネマ
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