
▲プレイ中だが、気が乗らないM男。
五つ星評価で【★★★★SMとは】
期せずして日本一レベルになってしまったM男が伝説の女王様に捨てられ、SMクラブに通いながら鬱屈とした日々を送っている。この設定で、M男を村上敦が芒洋と、クラブの女王様を菜葉菜がスタイリッシュに演じている。何かもうペーソスがぶんぶん拳振り回してるみたいな変な映画。売りはやっぱりSMシーンになるのだろうか。ヘアピースを付けて尻を剥き出しにした菜葉菜の女王様は意外にもエロティックで目を見張る物がある。M男の村上敦のだらっとした肉体に傭兵のようについている幾つもの傷のリアリティーも面白おかしい。ただ、SMプレイは性的ではない。倦怠期状態で膠着していて上り詰めて悲鳴をあげるような状態にならない。身体は縛られていても、心は日常の状態が維持されてしまう。この状態に対して村上敦が凄く前え向きに戸惑っていて打開策の有無などをしっかり心配しているので、コメディーのようでいてコメディーにならない。いや、コメディーとして捕える事も可能だろうけど、やはり観客は主役として村上敦を心配してしまうのだ。とても変な願望ではあるが、観客は主役が幸せになる事を望む。その幸せが自分達の常日頃の幸せと違うものであっても。映画の中のSMのシーンが性的にならないのは、撮影が引いて撮っていて、主観的な気持ちになるような接写がほぼないからだろう。M男と言う素材の観察に近い。
村上敦はSMが病気であり、治療が可能と考える会社のラブコメ女に翻弄されたり、菜葉菜との関係をSMというよりフラットな友人関係に変えたりしながら、伝説の女王様に再会する。追う。逃げられる。追う。多分、彼女は彼の人生に対するロマンそのものなのだ。ラストは劇的なような、そうでないような。
村上敦は苦痛に対して悟りを開くバラモンの僧侶のようであるが、個人的な作業でなく、達成した際の共犯者との信頼関係が大事なようだ。なんというバランスの難しさだ。Mはやりきってほしいと思っているが、やりきる事はMの死を招く。それを承知でMを見捨てられる孤高さがSに求められる。この映画のSMはサタミ・シュウが考える「サービスのS」とは方向性が違うプレイだ。何事もアスリートに徹するという事は何かを切り捨てなければならないのかもしれない。
よく、分からん。
が、こういう逡巡が面白いと思う。
映画の中に出てくる政治家の名前が「島村じょう」。えーと、009かよ。何故、「島村じょう」なのかと言えば、多分「島(S)村(M)じょう(じょおう)」と言うモジリなのだろう。彼の令嬢、島村嬢は島村女王である。ああ、加速装置でちんちんしごいてほしい(♀の島村女王に)。
SMは映画のように見てる分には楽しめるが、自分では手を出せないなあ。怖い。まあ、もう、爺さんで潤沢なお金もないから、手を出さないまま一生終わるであろう。

▲ちなみに、このポスター図案はブラフ。こういうキャラは映画に出てこない。村上淳のメンタルの具現化と言えばそうも言えるが、映像としては全く出てこない。そうそうM女出ないのよ、この映画。
【銭】
ユーロスペースの会員割引で1200円。
▼作品詳細などはこちらでいいかな
・夕方のおともだち@ぴあ映画生活
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