『ヴァチカンのエクソシスト』トーホーシネマズ新宿6
- Date
- 2023/07/21/Fri 22:03
- Category
- 映画(FC2独自レビュー)
◆『ヴァチカンのエクソシスト』トーホーシネマズ新宿6

▲ラッセル・クロウだが、ジャン・レノでも、ジェラルド・ド・パルデューでも行けそうな気がする。
五つ星評価で【★★★豚が不憫】
悪魔が憑いていようが、いまいが、あの豚の扱いは最低じゃない? 俺が豚の父母だったら泣くね。さて、イスラム教徒は戒律上、基本、豚肉を食べない。豚はイスラム教にとって卑しい動物だから体内に入れてはいけないのである。そのイスラム教とにかなり近しい所にあるユダヤ教でも戒律で豚肉食を禁じている。これがユダヤ教が発展して出来たキリスト教にどこまで取り入れられたかと言えば全くのスルーじゃないだろうか。あまり、キリスト教徒だから豚肉を食わないと言う人の話は聞かない。それはユダヤ人でもそうかもしれないが。何でもノアの箱舟で鼠が大繁殖した際、猫が大活躍して捕食したのだが、船内、猫の糞だらけで臭くなってしまった。そこでノアが祈ると、神は象の糞から豚を作り、豚はみるみる猫の糞を平らげたらしい。そりゃ、そんな獣、禁食対象にするよなあ。そこまで知っていたなら、悪魔だろうが、精神疾患だろうが「そんな汚らしい獣の中に入れ」なんて神の使徒がひどい事を言うんじゃない!と非難ができただろう。キリスト教は最後の審判の時、天秤によって善なる者か悪なる者かが振り分けられるという思想なので、そもそも内なる善悪で行動を変える事のない動物は宗教の枠外にいるのだろう。だから、教義的には相手が獣であるなら殺し放題でも問題ないのではないかなあ。ここが何となく「輪廻」が染みついてる日本人の感覚と相容れない所である。
この物語の中で面白いのは悪魔の立ち位置。
悪魔は全てを知っている。人としての浅はかさや、過去に犯した罪を。そこを突いてくる。全く罪を犯さない人間はいないし、ありえない。人はそれに対して、罪は神に懺悔して許されたから、もう罪ではないと防御する。悪魔は、そうは言っても、自分の中でまだ罪へのわだかまりがあるのではないかと攻めてくる。何と言うか、悪魔が神以上に「善」に対する規範が厳しい。神以上に神様が考える善を徹底させようとする姿勢が面白おかしい。在りし日の日本のテロリストが「自主批判せよ」と言って、仲間をどんどん粛清していった。あれなどが今回の悪魔の言動とかなり似ている。そして、この悪魔は教会を乗っ取り、過去に多くの信者を魔女として葬ったと言う。凄いぞビズリーチ、もとい、悪魔。悪魔は善の中枢に入り込み、そこから多くの災厄を引き起こすことを所望しているようだ。いいね。どう考えても、この「悪魔」の方が「人間」や「神」より、人間社会に災厄をもたらすと言う意味では有能だ。ただ、その事件に関して、悪魔がやってしまった事でいいのか問題もあると思う。悪魔がやった事だから人に罪がない。それでいいのか? 悪魔を言い訳にして、人の罪を隠蔽しようとしているのではないの? それこそ「神のみぞ知る」。
結局、悪魔が出てくる映画を見ていて、悪魔の最終目的がよく分からない。それは文化的な背景が違うからだろう。悪魔は最後の審判の際に悪なる者に振り分けられる者を増やそうとしているのか? ただ単に「神」が作った「人」という存在を痛めつけたいだけなのか? 教義延長の純粋な悪魔であるなら、「反・神」的なベクトルである事のみは明確。なら、人間にちょっかいを出さずに゜、「神」と「悪魔」、トップ同士で殴りあってくれねーかなー。
ちなみに教義延長でない不純な悪魔の代表が『エクソシスト』の魔王パズス。あのキリスト教と無関係な古代の悪魔を教会の祓魔術で退治できたのは謎とされていなくもない。
後半、悪魔との闘争の舞台が部屋から墓地に移って、果てしない我慢比べみたいな状態に陥るが、そこで人間側が勝つ理由が乏しいのが映画としての弱点だろう。我慢比べを我慢した者が勝つみたいに描写するのは物語の敗北以外の何物でもない。悪魔の弱点である「名前」を明らかにすることも戦いのキーとして、全然、役に立っていた印象がない。そもそもあの名前、前の人がピントずれてて違う名前だったりしたらどうするの? 何で後半はちょっとダレた。
いや、個人的には『痴漢のエクソシスト』が見たい。
あと、教皇区でラッセル・クロウがチョッカイ出す若い修道女子がみんな何か軽やかでステキ。
【銭】
トーホーウェンズデーで1300円。
▼作品の概要はこの辺り見てください。
・ヴァチカンのエクソシスト@映画.com

▲ラッセル・クロウだが、ジャン・レノでも、ジェラルド・ド・パルデューでも行けそうな気がする。
五つ星評価で【★★★豚が不憫】
悪魔が憑いていようが、いまいが、あの豚の扱いは最低じゃない? 俺が豚の父母だったら泣くね。さて、イスラム教徒は戒律上、基本、豚肉を食べない。豚はイスラム教にとって卑しい動物だから体内に入れてはいけないのである。そのイスラム教とにかなり近しい所にあるユダヤ教でも戒律で豚肉食を禁じている。これがユダヤ教が発展して出来たキリスト教にどこまで取り入れられたかと言えば全くのスルーじゃないだろうか。あまり、キリスト教徒だから豚肉を食わないと言う人の話は聞かない。それはユダヤ人でもそうかもしれないが。何でもノアの箱舟で鼠が大繁殖した際、猫が大活躍して捕食したのだが、船内、猫の糞だらけで臭くなってしまった。そこでノアが祈ると、神は象の糞から豚を作り、豚はみるみる猫の糞を平らげたらしい。そりゃ、そんな獣、禁食対象にするよなあ。そこまで知っていたなら、悪魔だろうが、精神疾患だろうが「そんな汚らしい獣の中に入れ」なんて神の使徒がひどい事を言うんじゃない!と非難ができただろう。キリスト教は最後の審判の時、天秤によって善なる者か悪なる者かが振り分けられるという思想なので、そもそも内なる善悪で行動を変える事のない動物は宗教の枠外にいるのだろう。だから、教義的には相手が獣であるなら殺し放題でも問題ないのではないかなあ。ここが何となく「輪廻」が染みついてる日本人の感覚と相容れない所である。
この物語の中で面白いのは悪魔の立ち位置。
悪魔は全てを知っている。人としての浅はかさや、過去に犯した罪を。そこを突いてくる。全く罪を犯さない人間はいないし、ありえない。人はそれに対して、罪は神に懺悔して許されたから、もう罪ではないと防御する。悪魔は、そうは言っても、自分の中でまだ罪へのわだかまりがあるのではないかと攻めてくる。何と言うか、悪魔が神以上に「善」に対する規範が厳しい。神以上に神様が考える善を徹底させようとする姿勢が面白おかしい。在りし日の日本のテロリストが「自主批判せよ」と言って、仲間をどんどん粛清していった。あれなどが今回の悪魔の言動とかなり似ている。そして、この悪魔は教会を乗っ取り、過去に多くの信者を魔女として葬ったと言う。凄いぞビズリーチ、もとい、悪魔。悪魔は善の中枢に入り込み、そこから多くの災厄を引き起こすことを所望しているようだ。いいね。どう考えても、この「悪魔」の方が「人間」や「神」より、人間社会に災厄をもたらすと言う意味では有能だ。ただ、その事件に関して、悪魔がやってしまった事でいいのか問題もあると思う。悪魔がやった事だから人に罪がない。それでいいのか? 悪魔を言い訳にして、人の罪を隠蔽しようとしているのではないの? それこそ「神のみぞ知る」。
結局、悪魔が出てくる映画を見ていて、悪魔の最終目的がよく分からない。それは文化的な背景が違うからだろう。悪魔は最後の審判の際に悪なる者に振り分けられる者を増やそうとしているのか? ただ単に「神」が作った「人」という存在を痛めつけたいだけなのか? 教義延長の純粋な悪魔であるなら、「反・神」的なベクトルである事のみは明確。なら、人間にちょっかいを出さずに゜、「神」と「悪魔」、トップ同士で殴りあってくれねーかなー。
ちなみに教義延長でない不純な悪魔の代表が『エクソシスト』の魔王パズス。あのキリスト教と無関係な古代の悪魔を教会の祓魔術で退治できたのは謎とされていなくもない。
後半、悪魔との闘争の舞台が部屋から墓地に移って、果てしない我慢比べみたいな状態に陥るが、そこで人間側が勝つ理由が乏しいのが映画としての弱点だろう。我慢比べを我慢した者が勝つみたいに描写するのは物語の敗北以外の何物でもない。悪魔の弱点である「名前」を明らかにすることも戦いのキーとして、全然、役に立っていた印象がない。そもそもあの名前、前の人がピントずれてて違う名前だったりしたらどうするの? 何で後半はちょっとダレた。
いや、個人的には『痴漢のエクソシスト』が見たい。
あと、教皇区でラッセル・クロウがチョッカイ出す若い修道女子がみんな何か軽やかでステキ。
【銭】
トーホーウェンズデーで1300円。
▼作品の概要はこの辺り見てください。
・ヴァチカンのエクソシスト@映画.com
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